【ヨハン・ゼバスティアン・バッハ】後編

バッハは、
「バロック音楽」の重要な作曲家の一人と言われています。

「バロック音楽」というのは、
1600年頃から バッハが死ぬ1750年頃までの
約150年間の西洋音楽をいう。

「バロック」という言葉は、
美術史上の用語を転用した言葉で、
通奏低音の技法が声楽、器楽を問わず多く用いられたため,
「通奏低音の時代」ともいわれる。

「通奏低音」というのは、
オルガンやチェンバロなどの奏者が、
低音部の和音を即興的に弾く手法だそうです。

この頃、
オペラ・オラトリオ・カンタータなどの
劇的声楽曲とともに、
種々の器楽曲が発達したのでした。

バッハ・ヘンデル・ビバルディ・パーセルらが
代表的作曲家でした。

バッハは、
鍵盤楽器の演奏家としても高名であり、
当時から即興演奏の大家として知られていました。

バッハ研究者の見解では、
バッハはバロック音楽の最後尾に位置する作曲家として
それまでの音楽を集大成したとも評価されるが、
後世には、
西洋音楽の基礎を構築した作曲家であり、
音楽の源流であるとも捉えられ、
日本の音楽教育では「音楽の父」と称している。

バッハは、
現存するだけのもので、4つの受難曲(注)、
2つのオラトリア(注)、200曲以上以上の教会カンタータ(注)、
20曲を超す世俗カンタータ、5曲のミサ曲(注)、7曲のモテット(注)、
200曲近いコラールなど、
驚くべき多くの合唱作品を作曲しています。

受難曲:イエス・キリストの受難物語に曲を付けたもの。
オラトリオ:宗教的又は道徳的な内容を劇的に扱った、
独唱、合唱、オーケストラのための大規模な声楽曲。
教会カンタータ:カンタータは、 楽器伴奏を伴ってソロや合唱により歌われる。
教会カンタータは、典礼での演奏を目的に書かれたものを指す。
ミサ曲:ミサ通常式文の、キリエ、グロリア、クレド、
サンクトゥス、アニュス・デイの5章をひと組にして
合唱組曲のように作曲したもの。
モテット:13世紀前半に成立した、
ポリフォニー声楽曲の重要な楽曲形式のひとつ。

さて、
バッハは、ワイマールの領主の許しを得て、
1717年「ケーテン」に赴いた。
「ケーテン」は、旧東ドイツに所属していた小都市で、
後に住む「ライプツィヒ」からも北西約50キロに位置する。

ケーテン市庁舎764PX-~1

↑ケーテン市庁舎

1717年の日本は、
8代将軍徳川吉宗の時代で、
前の年から、「享保の改革」が始まり、
年貢の引き上げなどで財政安定策を図っていた頃です。

「ケーテン」では、1723年まで
アンハルト=ケーテン侯レオポルトの下で
宮廷楽長として仕えていた。
バッハが32歳であった。

レオポルトは、当時23歳と若い領主であったが、
オランダやイギリス、イタリアなどへ旅をして見聞を広め、
音楽の良き理解者となり、
バッハの才能を高く評価し彼を友人として扱った。

このように、
バッハのケーテン時代は恵まれた環境の中で
自由に仕事が出来ていたという。

宮廷楽団は、
弦楽器の他オーボエ・ファゴット・
フルート・トランペットと打楽器を含む17人で編成され、
バッハの管弦楽や室内楽はこうした楽団や
楽員のために作曲していました。

バッハの最高傑作に属する
6曲の「ブランデンブルク協奏曲」、
3曲の「ヴァイオリン協奏曲」、
3曲の「無伴奏ヴァイオリンのためのソナタ」、
3曲の「無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ」、
6曲の「無伴奏チェロのための組曲」等
ケーテン時代に作曲されたのでした。

そして、1720年、35歳のバッハは、
13年間連れ添った妻のマリア・バルバラが急逝。
あまりに突然の死で彼の心は深い悲しみに沈んだ。

ところが、翌年、
宮廷でソプラノ歌手をしていた、
アンナ・マグダレーナと再婚しました。
(バッハは女性にもてたのだろうか?)(笑)

彼女は、バッハと結婚後もこの地位にとどまり、
忙しい主婦の努めをはたしながら専門的な
音楽家としても活躍を続けました。

そして、結婚後29年間、
文字通りバッハのよき伴侶として、
夫の仕事を助けつつ、
優れた音楽家を含む13人の子供を生んだのでした。

バッハは、1723年、38歳になり、
1750年に亡くなるまでの晩年の地、
「ライプツィヒ」に移り住む。

ライプツィヒの銅像

↑ライプツィヒにあるバッハの銅像

「ライプツィヒ」に移り住んでから、
65歳で世を去るまでの27年間、
聖トマス教会付属学校カントル(合唱長)の地位を守り続け、
この間、彼は教会音楽の仕事に没頭し、
カンタータや受難曲等不滅の教会音楽の大部分を作曲しています。

しかしそれらは周囲の無理解と
苦難に満ちた闘いの中から生まれたのであり、
バッハの生活は決して幸福なものでなかったという。

「ライプツィヒ」に来てから教会音楽家として
カンタータ等の作曲を精力的に行ったが、
それは最初の数年間せいぜい1729年までという。

1729年頃を境にして教会音楽の作曲に対する
バッハの関心は急速に減退していく。

この原因として、
1729年にコレーギウム・ムージクムという
大学生の演奏団体の指揮者に就任したが、
聖職会議や市参事会との争いが
頂点に達していたという。

こうして、1729年以降は、
コレーギウム・ムージクム用の器楽曲や
世俗カンタータ等の作曲に活動を変化させいった。

更に1736年頃からは以前に書いた作品に手を加えたり、
いくつかの作品を曲集の形で纏めたり、
あるいはそれらを出版するようになったという。

そして、晩年になり、
1749年5月に起こった脳卒中の発作にともなって
バッハの視力は急激に減退した。

イギリスの名眼科医が「ライプツィヒ」に滞在中に、
1750年3月から4月にかけてバッハは、
2回に亘って手術を受けたが失敗に終わり、
バッハの視力はすっかり奪われてしまった。

7月には一時視力を回復したが、
すぐまた脳卒中の発作が起こり、
7月28日に、愛する人々に見守られ
静かに息を引き取ったと言われています。

晩年のハッハ1746Bach

↑晩年のバッハの肖像

実は、生前のバッハは作曲家というよりも、
オルガンの演奏家・専門家として、
また国際的に活躍したその息子たちの父親として
知られる存在に過ぎず、
それらの曲は次世代の古典派からは、
古臭いものと見なされていたこともあり、
死後は、バッハのことは急速に忘れ去られていったという。

それでも鍵盤楽器の曲を中心に、
息子たちやモーツァルト、ベートーヴェン、
メンデルスゾーン、ショパン、シューマン、
リストなどといった音楽家たちによって
細々と受け継がれていった。

その後、
1829年のメンデルスゾーンによる、
マタイ受難曲」のベルリン公演をきっかけに、
一般にもバッハを高く再評価されるようになった。

バッハの死後、79年も経っていたのです。

音楽、絵画などの芸術家は、生前の頃は評価されず、
死後、何年も経ってから評価されることも多々あり、
本人が自分の評価を知らずに亡くなっていったのは
残念と言えます。

さて、来年の定期演奏会(5月24日(日))で無伴奏で演奏する、
バッハのモテット、
「イエスよ、わが喜び(BWV227)」ですが、
自筆譜が残されていません。

最古の資料は1735年の筆写譜で、
その中に、BWV227の第1曲、第3曲、第7曲が
筆写されているそうです。

全曲の筆写総譜としては、
1750年頃のものが最古だと言われています。

従って、このモテットは、
バッハが「ライプツィヒ」に赴任した
1723年から1735年の間に作曲された
可能性が高いそうです。

日本はというと、
徳川8代将軍、徳川吉宗の時代です。
こんな頃に、バッハがこのモテットを作曲したと思うと、
如何にバッハが偉大であったか分かりますね。

ては、また!

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