来年の第48回定期演奏会(平成27年5月24日)で
バッハのモテットNo.3(Jesu, meine Freude)をアカペラで演奏するのですが、現在
そのモテットを“猛特訓中”、身体に染み込ませるにはまだ時間が掛かりそうです(^_^;)
そこで、“猛特訓中”に?因んで、
ヨハン・ゼバスティアン・バッハ(Johann Sebastian Bach)
について調べてみました。
バッハは、1685年3月31日生まれで
現在のドイツ、
当時は神聖ローマ帝国の「アイゼナハ」に生まれ、
少年期をこの「アイゼナハ」で過ごしていました。
「アイゼナハ」は、「フランクフルト」からIC(特急)で約2時間
旧東独国境を越えてすぐの所にバッハが生まれた街「アイゼナハ」があります。
↑ドイツ・アイゼナハの場所
↑アイゼナハの街並
アイゼナハはドイツの小都市で、世界遺産のヴァルトブルク城があります。
↑ヴァルトブルク城
現在、バッハの実際の生家ではないが、
バッハ一族が過ごしていた家が保存されているという。
さて、バッハは、
町楽師の父ヨハン・ アンブロージウス・バッハと
母エリザベートの8番目の子として生まれました。
幼少期のバッハについては殆ど知られていないが
父からバイオリンを、伯父からオルガンを教わっていたと言われています。
↑アイゼナハにある銅像
バッハの生まれた年の日本はというと、江戸時代の貞享2年で
徳川5代目の将軍、徳川綱吉の時代でした。
この年に最初の「生類憐みの令」が出され、元禄文化が花開く頃です。
そして、バッハが17歳の時に日本は元禄15年で
有名な赤穂浪士の吉良邸討ち入り(忠臣蔵)がありました。
日本ではこうした時代背景の頃ですが、
バッハの生い立ちと日本の歴史を比較するとなかなか面白いですね(笑)
バッハ一族は音楽家の家系で、一族の音楽家は約60人もいたそうで
他のバッハとの混乱を避けるために「J.S.バッハ」と略記され区別されています。
「J.S.バッハ」は、バッハ家でもっとも偉大であるという意味で
「大バッハ」という呼び名も古くから使われています。
ここでは「J.S.バッハ」を「バッハ」と書かせて頂きます。
「バッハ」は不運にも両親を相次いで亡くし、10歳で孤児となってしまいました。
バッハはオールドルフという町でオルガニストをしていた長兄のもとに引き取れらたが
優れた音楽家であった長兄のもとで、その音楽的教養は著しい進歩を示したという。
14歳になったバッハは兄のもとを離れ、一人立ちをしなければならなくなり
北ドイツのリューネブルクの、聖ミカエル教会合唱団で
ソプラノ歌手として月給をもらいながら学業を続けることとなった。
まもなく変声期を向かえたが、幸いなことに
優れた才能が認められ、バイオリンやヴィオラ奏者として教会に雇われた。
青年時代(二十歳前後)にバッハが就職したのは
テューリンゲン地方の中心都市、ワイマールの宮廷で、
18歳の春に、その宮廷楽団にヴァイオリンニストとして採用された。
その年8月にはバッハ一族と縁の深いアルンシュタットで再建中の
「新教会」が完成し、ここのオルガニストに就かせようと遠縁一族の運動もあって
正式の辞令をもらい、オルガニストとして勤めることとなった。
この時期、彼は熱心にオルガンの演奏技術を磨き
オルガン作曲法を詳しく研究したと言われています。
またオルガニストの仕事以外にも聖歌隊の指導と指揮にも従事していました。
↑若い頃のバッハ
21歳になったバッハは、
ミュールハウゼンのオルガン奏者に高額の年俸で採用され、
翌年には同い年のマリア・バルバラと結婚したのでした。
2人の間に生まれた7人の子供のうち、
フリーデマンとエマヌエルは高名な音楽家になりました。
そして23歳の夏にバッハは、新任地のワイマールに移り住むことになる。
ワイマール宮廷での就職は2度目であるが、
今度は宮廷楽団の楽師および宮廷礼拝堂のオルガニストとして働くことになる。
バッハの不滅のオルガン曲の半数近くが、このオルガンにより生み出されている。
多数の前奏曲とフーガ、トッカータ、コラール前奏曲などがこの時代に作られた。
後にケーテンやライプツィヒで完成された作品の中にも、
このワイマール時代に着手したものが多い。
この頃、楽師長(コンツェルト・マスター) に任命され
1714年以降の彼の活動はカンタータの作曲と演奏に集中し、
現存する約200曲の教会カンタータのうち30曲近くがワイマールで作られている。
「教会カンタータ」というのは、
主にプロテスタント教会の礼拝用に書かれたカンタータで、
オーケストラの伴奏による「コラール」と「アリア」が交互に進行する音楽です。
「コラール」は、祈祷所に集まった民衆も一緒に歌うもので、
歌詞は聖書から取っているものもあります。
この頃、バッハに弟子(シューバルト)がいて代理でオルガニストを務めたので
バッハはワイマールでの9年間に色々な町に旅することが出来、様々な経験を積んだ。
それからバッハは、1717年(32歳)にはケーテンの宮廷楽長の職を得たが
ワイマールでの辞職がなかなか認められなかった。
ワイマール領主はバッハほど有名有能な音楽家を簡単に手離したくなかったのであろう。
しかしバッハが断固として辞意を翻そうとしなかったので
不服従の罪で4週間、バッハは牢に拘禁させられたという。
この入牢中に不滅の作品「オルガン小曲集」(BWV599-644)の一部が
生まれたのであろうと言われている。
そして領主もバッハの強情さに屈し、いやいやながら辞職を認めざるをえなかった。
こうしてバッハは一足先に移任した家族の後を追って、新しい任地ケーテンに向かった。
そこでは全く新しい環境と新しい芸術が彼を待ち受け、
バッハ自身が切り開いた「わが生涯 最良の時代」が
まさに始まろうとしていたのでした。
少し話が長くなってしまいましたので、
この続きは「後編」でいずれ書かせて頂きます。
では、また!
コメント
おいちゃん
バッハについての解説をありがとうございます。m(__)m
とても解り易く素晴らしい!
日本の歴史との比較も興味深いですね。
「後編」を楽しみにしています。 (*^_^*)
私はモテットというものは初めてでして、よく他団の演奏会プログラムに載っていて「これって何?どんな曲?」と思っていました。
今回新宿混声で演奏することになり喜んでいます。
『「コラール」は祈祷所に集まった民衆も一緒に歌うもので、』と解説にありましたが、私も民衆の一人になった気持ちで歌いたいと思います。
ところで、明日から恒例の合宿です。
ロシア民謡は初練習となりますが、「初見で練習にならない!」なんてことのないよう、皆さま頑張りましょうね!(先生が所どころ楽譜に手を入れられていますからね)
集中して練習することで、現在どこまで仕上がってきているか、自分の苦手な箇所はどこか、が分かります。
気持ちを引き締める意味でも「合宿」は団員にとって重要な時間だと思います。
明日からの2日間、頑張りましょう!